田舎者Yの日記

定年退職して農業に従事している者のブログ

(海外からスパムコメントが続きましたので、しばらくコメントは承認制にします。)

杉並区と深谷市の縁

 よく Wikipedia を利用させてもらっている。利用するだけでなく編集もしている。編集といっても近所の建物などの写真を撮って掲載することが主だ。私のような写真が下手な者が編集してよいのかなと思うこともあるが無いよりは良いか、他に誰もやらなさそうだし…と思って作業している。気がついたら既に200件くらい編集していた。新たな私の趣味だ。定年退職まで十年をきったのだが老後の楽しみが増えた感じ。気のせいか写真撮影が多少まともになってきた感じはする。

 

 最近 Wikipedia を編集していて地元出身の歴史上の人物が東京都杉並区と縁があることに気づいた。
 私は埼玉県深谷市に住んでいるのだが、合併する前は埼玉県大里郡岡部町であったところである。鎌倉時代初期の武将、岡部六弥太忠澄(おかべ ろくやた ただすみ)の出身地である。一の谷の合戦で平薩摩守忠度を討ち取った方であり、その墓も地元の普済寺という地名のところにある(実際は三浦半島、今の葉山町で自害されたようでそちらにも墓がある)。地元では「ろくやた」として親しまれている。忠澄の子孫の岡部氏はその後、この岡部の地を離れたと聞いていた(江戸期に岡部藩が存在したが領主は安部氏だった)が、どうもその子孫が杉並区のあたりを治めていたようだ。

 

天桂寺と杉並区の由来 | 日本実業出版社

岡部氏は武蔵国榛沢郡岡部(埼玉県深谷市)をルーツとし、武蔵七党の一つ猪俣党に属した氏族。以後、代々武蔵の在地武士として続き、戦国時代には北条氏の家臣となっていた。北条氏の滅亡後は徳川家康に仕え、江戸時代は旗本となってこの付近を知行していた。

岡部氏はのちに領内を通る青梅街道に杉並木を植えた。ここから杉並という地名が生まれ、現在の杉並区になったという。

 なんと杉並区の由来となった杉並木を植えたのは、うちの近所の出身だった岡部六弥太さんの子孫の方だったようだ。当時は東京も埼玉も同じ武蔵国だったから岡部氏の子孫はあるいは武蔵の北から南へ引っ越したという程度の感覚だったかもしれない。おそらく当時の杉並は、今でも畑が広がるここ旧岡部町(現深谷市)の風景と大差ないものだっただろう。そういうことを想像すると楽しい感じがしなくもない。

 いずれは杉並区にある天桂寺を訪れたいものだ。