田舎者Yの日記

定年退職して農業に従事している者のブログ

(海外からスパムコメントが続きましたので、しばらくコメントは承認制にします。)

岡谷繁実という方

日中があまりに暑かったので地元の深谷市立図書館で涼を取りながら読書していると、館内放送で、企画展「この人を知っていますか? 深谷にゆかりのある人々Ⅱ」の学芸員による解説が催されるとの案内が。興味を持ったので参加してみた。深谷に縁のある日本画家の江森天淵・天壽の親子、夭折した柳田可つ良・さくら姉妹、日本画家の倉上明湖の解説が行われた。実際に作品を目の当たりにすると、こんなすばらしい作品を残した人がこの地にもいたんだなと思うのだが、私にとって印象に残ったのは6人目に解説された岡谷繁実(おかのや しげざね)という方だった。

「尊皇の志士」として紹介されていたが、この方はちょっと紹介しずらい経歴だ。「ひとの4倍生きたとも言える」と学芸員は語っていたが、たしかに波瀾万丈の人生だ。「名将言行録」という、お芝居や映画の時代考証などによく参考にされる書を著した。修史家と言えるのかも。

 

日本史の表舞台に出た方ではないので世間には広くは知られていない。Wikipedia の項目もあっさりとしている。

 岡谷繁実 - Wikipedia

今日聞いた学芸員さんの話のほうがこのページよりよほど内容が濃い。あの学芸員が Wikipedia を執筆してくれないかと思ったくらい。

岡谷の生涯は大きく分けて4つくらいに分けられるようだ。山形藩秋元氏の家臣の子として山形城内に生まれ、藩主の移封により館林藩に移る。最初はその館林藩士としての時代。父の急逝により13歳で元服家督を継ぐ。幼い頃にかかった天然痘の影響でたびたび眼病に悩む。伊豆堂ヶ島に療養後、江戸に留まって高島流砲術を学ぶ。館林藩使番に昇進。江戸勤務中にペリー来航。幕府使節団の一員として実際にペリーとの交渉に立ち会ったそうだ。このときのアメリカ人の日本を見下した態度に大いにショックを受け「これからの日本人に精神的指針を示す必要性を痛感」、名将言行録の起稿を決意したそうだ。

万延元年(1860年)、岡谷は眼病治療と偽って上洛し朝廷に攘夷実行の勅使を幕府に出すよう請願に向かい却下されて無断上洛の罪を問われることとなった。このときは降格で赦された。文久の政変で長州征伐が検討されると衝突回避のために長州に乗り込んで和議を模索するが失敗。その後この責任を問われて深谷の地に家名断絶、家禄没収のうえ蟄居命ぜられるそうだ。もし長州の説得に成功していたらきっと日本史に大きくその名が残ったのかもしれない。

2つめが浪人時代。深谷は岡谷家の祖先のゆかり地でその家臣の末裔たちが岡谷繁実を暖かく迎えてくれたそうだ。長州説得には失敗したものの朝廷内からは大いに評価され、孝明天皇の側近との交流を続けていたそうだ。慶応4年(明治元年 1868)孝明天皇の侍従高松保実の子、高松実村を隊長とする「高松隊」を組織、甲府に入るも偽勅使として謹慎を命ぜられてしまう。(同行の小沢一仙は処刑。岡谷は武士だったから死罪を免れたのだろうか)その後、謹慎中も大阪行幸中の明治天皇の下を訪ね江戸遷都や足利学校再建を建言する。

3つめは明治政府出仕時代。明治の御一新により大赦。館林藩に帰藩後、新政府出仕を命ぜられる。会津に赴任する。会津戦争後で随分と悲惨な状況だったそうだ。その後なぜか免官(学芸員は謀略にあったのではないかとおっしゃっていた)禁錮処分となる。この頃に「名将言行録」初版を刊行する。処分中に東京府豊島郡角筈村(現在の新宿区西新宿)で「寒香園」という農園を経営。観光農園としてうまく行っていたそうである。(のちに「巴ビール」を醸造したそうだ。)その後復官し昇進していった。関西地方の古社寺宝物調査などにも従事したそうだ。なお明治10年、奈良行幸の際に、明治天皇正倉院の宝物、蘭奢待(らんじゃたい)を切り取ったのは岡谷繁実だそうだ。田山花袋の兄を自宅に書生として住まわせたりもしたそうである。

 4つめは修史家時代。「寒香園」は梅の名所として有名になりビールの醸造も軌道に乗っていたようだ。(後に寒香園は浄水場用地として買収される)官職を辞職後、銀行の取締役にも選任されたようだが同行の影響停止などもあったようだ。足利学校、金沢文庫、鎌倉宮の再建などに尽力し執筆活動も多くおこなったようだが彼の著作の「皇朝編年史」が東京帝国大学が編纂中の「大日本編年史」の盗作だとして訴えられることに。後に訴訟は取り下げられたのだが、晩年まで波瀾万丈だったようだ。

自分の信じる道を行く、マイペースな人だったのかと想像するが、どこか憎めない面も垣間見られる。どなたかこの方の生涯を小説にしてもらえないだろうか。