田舎者Yの日記

片田舎のバイク乗り・Linuxユーザ、つまり変わり者のブログ

岡部六弥太の最期の地を訪ねた

 昨日は平日に珍しく仕事が休みだったので、以前から行きたかった岡部六弥太忠澄が亡くなったとされる地を訪ねてみた。今まで何回も行こうとしたのだが、その度に不都合なことが起こりなかなか行けなかった。今回やっと念願が果たせた。

 私は現在埼玉県深谷市に住んでいるが合併する前には岡部町だった。かつて鎌倉時代には岡部氏の領地だった地だ。源平合戦で活躍した岡部六弥太の墓も自宅そばにある。しかし、どうも六弥太はこの故郷岡部で亡くなったのではないのだという説が有力のようである。自宅から遠くの神奈川県葉山町に同時に亡くなったとされる猪俣小平六も同じ場所に祀られている場所があることをネット検索で知った。どうもそちらが実際に亡くなった場所であるようだ。旧岡部町の住民として一度その岡部六弥太の最期の地を訪れたかったのだ。

 参考にしたのは下記のNPO葉山まちづくり協会の散策MAPである。とうも上山口小学校のそばにお墓があるようであった。
 葉山を歩こうー散策MAP「上山口」

Google ストリート・ビューは役に立った

 導入期のプライバシーへの対応から、私は個人的に Google ストリート・ビューは嫌いであったのだが、今回初めて葉山町を訪れるにあたって事前に周辺をストリート・ビューで確認しておいた。現地にいってあまり迷わずにすんだのはそのおかげであった。たしかに初めて訪れる土地の情報収集にはストリート・ビューはかなり役に立つ。(ま、泥棒さんにも役に立つとは思うのでやはり手放しでは喜べない。)

 ストリート・ビューで「予習」をしていったのだが、なかなかお墓を探すことはできなかった。民家の入り口らしいところを数十メートル道路から入ってようやくお墓を見つけることができた。(農作業をしている地元の方と一言二言お話をして見つけることができたのだが、埼玉から来たことを告げると、よく遠くから来たと驚かれた。ちょっとうれしく感じた。)

二つの墓石の類似性

 今回、葉山の岡部氏の墓と思われる石をみて驚いたのだが、深谷市(旧岡部町)にある六弥太の墓とよく似ているのだった。
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 これが葉山にある岡部氏の墓だが五輪塔のような形状でやや茶褐色の凝灰岩で出来ている。

 地元旧岡部町にある岡部氏の墓は(ややこしいな)私はちょっと墓石を大写しにした写真を持っていないのだが、以下のページを見てもらえるとわかるが、こちらも凝灰岩でできた五輪塔である。

 埼玉の『平家物語』を歩く・・・その①「岡部六弥太忠澄の墓」: アニマシオン


 凝灰岩というのはごくありふれた岩のようだが、ここ旧岡部町ではめったに見かけない。おそらくは墓石となる石を遠くから運んだのだろうが、誰がいつ頃どうやって作ったのだろう。

 今回、葉山町まで趣味のバイクで出かけたのだが、高速道路を使ってもかなり遠いと感じた。いかに二つの墓石が似ているからといってわざわざ三浦半島から関東平野の北端まで石を持ってきたとは考えにくい。
 おそらくお墓というのは時代の流行などもあって同時期に作られたから似ている形状になった、というのは自然な考えではないか。それにしてもうちの近所では滅多に見かけない凝灰岩のお墓だ。


 単なる素人考えだが、ひょっとしたら三浦半島から職人を呼び寄せて作ってもらったか、岡部氏の亡骸を引取りに来た人が葉山のお墓をみて、それを模して北関東の地でも作ったとするのが妥当な線なのではないだろうか。

 ちなみに岡部六弥太忠澄の最期については下記のページに詳しく記述されている。

 http://www.geocities.jp/kanwada35/okabe.htm

一方六弥太は、「忠度」の中入り後で合戦の様が謡われているように、岡部は首を取られそうになったところを、岡部の部下によって、忠度は腕を落されてしまったので、観念して首を取らしたと言われています。後日六弥太は、その時得た短冊を持って俊成を訪ねるのでした。

 一の谷の戦い後、二人は頼朝から武勲一の筆に加えられたのでしたが、どうもその討取り方がまともでなかったので、悔いて郷里武蔵にも帰れず、悶々の日々をここ葉山で過ごしたようです。
かなり強度のノイローゼに陥っていたのでしょう。二人は、ある日戦友である横須賀矢部の三浦義澄を尋ねるべく出発しましたが、なにを思ったか、葉山上山口入生田いりうだの下山川の畔から飛込み自殺をしてしまったのでした。それは建久3年1192 11月のことでした。 里人はねんごろに武具と共に埋葬しました。
現在地には享保4年1719に移葬されました。この時遺骨は故郷埼玉県に移されたと近所の人のお話です。

 おそらくは葉山の墓石を見て岡部の地にも同じような墓を作ってようとしたのではないだろうか。そんな気がしてならない。